2018.1.21

星の物語製作所展、安藤忠雄展、クリスマス会でプレゼント交換(江口洋介風Oちゃんの絵と靴下)、猛者たちとの高級豆乳鍋、鎌仲ひとみ監督の話、息子猫里帰り、インフルエンザ、遅い初詣で凶、ステンカラーコート、f.houseでマッサージとルーシーダットン、巨大パーティールームで二人カラオケ、高級かまぼこ新年会、珍奇なドライブ、18歳ドイツ人の義妹、大人の恋愛事情、預言カフェ、スピカ泡吹き、おろちのピアス運び癖、雪。

先月行った安藤忠雄展が、とても面白かった。膨大な展示の中で最も関心をひかれたのは、住居建築であった。人は普通住居にリラックス、快適さを求めると思う。彼の住居はそれを否定しているように見えて実は、リラックスや快適という感性のクオリティーが高すぎて、一般人がそう感じられないだけなのだ。安藤忠雄が提案する家に身を沿って生活したら、人間の佇まいや纏う雰囲気も変わりそうだ。いつか自分の家を持つなら、自分を正さざるを得ないくらいの頑固な家に住んでみたい。私のような自律が苦手な怠け者にはいいかもしれない。

正月はインフルエンザで寝込んでいたため、正月気分を全く味わえずに2018年に突入。4日間殆ど食べずひたすら高熱で寝ていたら、体重も3kg減り無駄な食欲も無くなり肌艶が良くなってかつ、四十肩らしきものが無くなっていた。強烈な毒出しだったようだ。年末に行った葉山のマッサージがどうもスイッチになったような気がする。

一昨日、飼い猫スピカ♂が泡を吹いてヨダレを垂らしていたので、朝イチで近所の動物病院へ。結局異常は見つからなかったが、点滴や吐き気止めなどの投薬を勧められた。症状だけ抑えても、私が安心なだけである。悪いなら表面化する方がいい。見たところスピカも「気持ち悪いですわ〜」くらいで悶え苦しんでいるわけではない。この際気持ち悪さは我慢していただいて、獣医師に相談した後全部断る。とりあえず大量の新鮮な猫草を準備して経過観察することに。

ちなみに彼は今現在、発情している。生物は生命存続が危ぶまれた時に種だけは残そうと発情するというけれども、多分彼の場合はそういうことではない。スピカはもともと辻褄の合わない猫なのであまり気にしないことにする。

ステンカラーコートをネット購入し、先方の手違いで返品。それが二度も続く。とても欲しいコートだったが、気が失せる。去年はそういうことが多発した。全て金銭的な損はしていないのだけれども、時間的な損が甚だしい。「損をしたくない」という我欲が働きやすくなっているなと思っていたのだけれども、その現実化表現かもしれない。あかんな。(関西出身の友人Aさんの言い方が思い浮かんだので)

今雪が降っている。こんなに寒いのに朝珍しくやる気が出て仕事に精を出すも、今はやる気もすっかり失せて雪を眺めながら熱いコーヒーをすすりつつこうして日記をつけている。久しぶりにナンバーガールなど聴いていたのだけれども、どうにも肩が立ち上がってくるのでmice paradeに変えた。

もう少しコンスタントに日記をつけたい。

時間が経ちすぎると物事の芯を覆う気配や、感触のようなことが失われてしまう。例えば今日のこの深々と冷えた部屋の中で冷えた指先を温めるためにも、コーヒーを飲むリズムは有効なこととか。雪は時間を伸ばす作用があるような気がするようなこととか。そういうことに彩りを感じるような常態でいたいと思う。

2017.12.1

「ドット・マトリックス」、古書ほうろうに絵本納品、BOOKTRUCK三田さんトーク、前田ビバリー出版記念パーティー、宝石の国9巻、妙齢女会、ハリケーンの女、携帯乗り換え、SW夫妻+ワン主催の宴、裏テーマ「交換」、F9のキュートママ、無意識の残酷な優先順位、期待に応えないという選択。

展示も残すところあと2日。自分にとってとても充実した展示となった。

当たり前のことだが、毎回必ず展示中に様々な欠点や反省点や可能性を見つるける。最終日に近づくにつれ達成感を損なうこと必至である。

今回はこのスペースの目的がワンダーウォール(作家にとって発見と成長が生まれるための展示)という店主の意向があり、それを思いっきり利用させていただいた。展示してやっと客観的になれるので、描いたらその都度展示して試せるのはとてもいい。すぐ判断できるのですぐ次にいける。つまりとても効率的だ。忙しなく動く展示を店主方も楽しんでくれたので、安心してその深い懐にダイブしてしまった。店の看板犬は毎日来る私に段々飽きていき、遂に帰る時に全く反応しなくなった。どうでも良い存在になるというのは時には心地いい。

感情についての考察。感情は反応なので「感情的になるな」というのは酷な話だ。それは「無反応でいろ」ということになってしまう。反応はいいが表現するのはどうか、という大人の意見もあろうが、上手く表現のコントロールすることが出来ればよいのだけれども、下手にやると感情を抑圧することになってしまう。そうすると今度は抑圧された感情の行き場がなくなり、溜まって澱んでしまう。要するに重要なのは「上手く感情的でいること」なんじゃないか。「下手に感情的でないこと」は弊害がありすぎる。特殊な場面以外、大体の場合はこれでいいんじゃないかと思っている。

反応を不必要にする、つまり原因を過去にするには全面許容の「感謝」だな。逆に言えば「感謝」出来たら過去になったという証かもしれない。

携帯乗り換えに相当な時間と労力を使った。バカみたいにしつこく調べたり聞いたりして、「損をしたくない」というがめつい執念に自分でも呆れるが、結果心おきなく新しい携帯システムを使えている。今のところではあるけれども。

最近雄猫スピカの珍求愛が激しい。就寝中の私の頬に一心不乱に尻をつけて来る。他人が聞いたら微笑ましい仲良しエピソードであろうが、クサッと目覚めるのはかなり嫌なものである。やめてほしい。なんで尻で、なんで頬なんだ。

もうすぐ満月。

久しぶりに神託カード引いたら、「どっちでもいいからさっさと決めろ」というお達し。

そう、「正しさ」などどうでもよい時がある。

明日は展示会場で友人にもらった満月色のルレクチェ(知らない人は最新のMetro min.参照)を食べよう。

2017.11.7

満島ひかり舞台「羅生門」、河瀬直美監督「光」、鎌仲ひとみ監督エネルギー講座、センチメンタル、女の質、鈍感さについて、ボブという名の猫、怒りと笑い(感情の反動)、破綻、feel9&きんじ、先輩らとオールナイト、敏腕美容師による弾けたヘアカラー、酉の市、お金がない。

久しぶりの日記。書きたいことは色々あったけれども、PC状況がよろしくなくできなかった。そうこうしている間にあらゆることが流れ忘れていく。9月に下書きしていた日記から始まるので少し今とはズレがあるが、まあよい。

9月に河瀬直美監督の新作「光」を鑑賞。よかった。

恋愛とは、「交換」なのかもと思った。臨場的な気持ちの交換、相手と自分の皮膚や温度の感覚の交換、体液の交換、抱える思いだとか喜びだとか痛みの交換。ある人との出会いをきっかけに夏中何となくずっと意識していた「独占」について、ちょっと答えの糸口になるような気が。独占か。そうかもしれない。

夏は完全に終わり、秋を過ぎて冬に入る。

夏の気温と湿気で空中に漂っていた輪郭が定まらない、とりとめのない気持ちだったり物事だったりが、秋になって少しずつ形と色を持って降りてくるように染みていく。きっと夏までのことがはっきりするのだろう。でも今はあまり予測しないでおこう。私の場合、予想は限定を伴う。

最近テレビで観た興味深い生命学者の話。

動的平衡における生命活動とは、破壊と創造の同時進行でなければ前に進まない車輪のようなものなのだそうだ。そしてほんの少し破壊の方が多いため輪の規模が少しずつ小さくなり、生命は死に向かう。そして動的平衡における病気とは、破壊より創造の方が少し多くなった状態のことをいう。つまり、創造よりも破壊が少し多い状態が「正常状態」ということになる。なんとなく逆のイメージだったが、とても得心した。精神論ではよく語られる話ではあるが、別分野の観点からも同じことが言えるというのはとても納得できる。こういう時に微かに真理のようなものを感じる。滅することに向かうのが正常。うーむ、これは結構大事なことな気がする。

なぜそんなにも上記の話に関心を持ったかと言うと、最近のキーワードが「アイデンティティの破綻」であるからだ。これは恩師が勧めてくれた吉福さん著「世界の中にありがなら世界に属さない」の受け入りである。私は昔から取り繕ってしまう癖があって、それがなかなか抜けない。丸く納めるとかまとめるとか、そういう本質的でないことをよくしてしまう。これは一見いいように捉えられるし、まあ必要な時もあるのだけれども、結構厄介な癖である。つまり私は「破壊すること」がとても苦手だ。上記の話を参考にするならば、これはちょっと問題だ。

昨夜は友人らと浅草酉の市へ。祭は好きだ。通常みんな人混みは嫌だろうし私もそうだが、それは何故かというと多分、触れたら微かにでも感化されるからだと思う。電車のラッシュや街中などでは、様々な人々が様々な心理状態でいるので、開いていると知らぬ間に感化されていてとても疲れるのだ。でも祭では皆多少わくわくしているから閉じる必要もあまりない。「触れる」ということは結構大事だと思う。一緒にいた3人全員おみくじが凶だった。

噛み合わないのが連鎖する時がたまにあるけれども、それは無意識な拒絶な場合もある気がする。悲しいけれども、仕方ない。意識的には関わらない方がお互いのためだ。

今、近くのカフェでこの日記をつけている。今までは何時間もコーヒー一杯で居座っていたのだけれども、インターネットが家にない私は、頻繁に通うため当然顔を覚えられてしまった。そのためたった今注文したチョコレートケーキの生クリームが完全に溶けて、意味を成していないことに物申したい気持ちを抱きつつも、生クリームが仇となったチョコレートケーキを黙って食べる羽目に。また出たよ。取り繕う癖が。大したことではないけれども。

去年と同様簡易炬燵を設置したので、飼い猫どもは全く私に構わなくなった。逆にこちらは、寒くなりただでさえ温もりが恋しい。冬毛になった猫らはそれを満たすのに最適なので、強引にスキンシップすると、猫の嫌気が伝わってきて先ほどの話ではないが感化される。しかし猫に関してはそれも想定内だし許容しているので、何ということはない。嫌がる猫らの腹に顔を埋める日々。
ここしばらく怠けていたので、困窮していることに気づく。働こう。新たな展示も決まったし、来年の予定も色々決まりつつある。怠け期間終了です。という宣言をしなければ腹が決まらない39歳の立冬。

2017.9.16

 

ひらがなえほん原画展(東京)、前日。

実はこの絵本が出来るにあたって、不思議なエピソードがある。

本当はこの話はあまりするつもりはなかったのだけれども、何故かすんなり話してしまったSW11 kitchin+RのYさんとTさんにぜひ日記にと言われ、何となく素直にそうだなと思ったし、私の記憶はすぐさま砂漠の蜃気楼のようなものに成り果てるので、そうなる前に記しておくことにした。

 

遡ること4年前。当時の私は厄年の身であった。

その年は奇妙な出来事に遭遇したり、不吉なものを見たりすることが多く、なるほど厄年だなあと思っていた。妹にはそれぐらいのことで、と言われたのだけれども、私は割と真面目に思っていた。自分ではどうしようもない不可抗力な出来事というものがあるが、その質がそれまでとは全く変わったからである。

 

ある日の朝、私が阪急梅田駅で電車を降りた後、何気無くプラットホームの上を見上げたら向こうから一羽のカラスが飛んで来る。よく見ると鳩をくわえている。

ああまただよ。厄現象だよ。カラスが鳩を狩る光景も、もう2度目だ。そんなことを思いながら見上げている私の頭上を、カラスは鳩をくわえたまま飛んでゆく。私は黙って見つめていた。

鳩がちょっともがいたように見えて、あ、と思った直後に、

鳩が落ちて来た。

私は思わずそれを受け止めた。

一瞬の出来事であった。

数秒呆然とした後手の中を見ると、まだ産毛が残る子鳩である。温かい。生きている。首から血を流している。

さて、どうしたものか。この後夕方まで百貨店に居なければならない。百貨店がこの子鳩を持ち込むことを了承するとは思えぬ。悩んだ末に駅員らに相談したところ、野生動物なので駅で保護するわけにはいかぬとのこと。そこを無理に頼みこんで、私が仕事を終えて必ず引き取りに来ること、死んでも責任は負わないことを条件に、夕方まで駅で預かってくれることになった。

 

持っていた上着を小さな段ボールに敷いて、その中に子鳩を入れる。

心の中で「生きろ」と念じた私の目を、子鳩は真っ直ぐに見返した。

それを見てどこかで小さく確信して、子鳩を駅員に託す。

 

夕方駅に戻って受け取った子鳩は、まだ生きていた。けれどもこのままではやがて絶命する。百貨店で二人展をしている相方久野安依子さんは野良猫などをよく保護したりしていると聞いたことを、ふと思い出す。ひとまず彼女に相談しよう。電話をかけると、親身になってくれた彼女が、ある人を紹介してくれた。都会で傷ついた野良猫や野鳥などの動物を世話しているという。早速その方に電話で事情を話すと、直ぐさま駆けつけてくださり、車で一緒に病院まで連れて行ってくれた。

 

病院での処置が済み、あとは自宅観察ということになった。

私はまた考えた。うちには野良上がりの猫が2匹居る。傷ついたかよわい子鳩に対する情愛などは期待できぬ。そればかりか、きっと一心不乱に全力で狩ろうとするに決まっている。飼い主の私が情に訴えて涙ながらに説得したとて、涙を拭っている間に子鳩に飛びかかるであろう。カラスの飯の代わりに猫の飯になること必至である。

 

黙って考え込む私に、その方は自分が面倒を見る事を申し出てくださった。私が治療費と養育費を出すというと、それも退けられる。その潔さと責任感に感謝と恐縮を感じつつも、他にいい案が浮かばないのでお言葉に甘えることにした。

 

それから4年。だいちゃんと名付けられたその子鳩は、その後立派な鳩に成長し、つがいとなり、なんと子鳩も生まれる。そうして今年までその飼い鳩生を全うしたのである。

 

育ててくださった恩人石川さんから、だいちゃんの逝去の知らせ。深く御礼を伝えた後に近々大阪に行く旨を伝えたら、そこに直接来てくださった。たまたま私の絵の展示中で、その私の絵を見て気に入ってその後に何点か購入してくださった。

 

そしてここでようやく、話の収束に向かう。

今回のひらがなえほんは、その方からの依頼なのである。

都会の野生動物保護の資金源として親子が楽しめる文字の絵本を作ってくれないかという。

 

まさかあの時の出来事が、こんな風に新しい扉を開くことになるとは思わなかった。縁とは全く不思議なものである。そのきっかけは、本当にちょっとした選択なのだ。だいちゃんもどえらい縁を運んでくれたものである。

 

こういうことが発生の源となった絵本制作であるため、全力で取り組まねばならない。いや、思わずかっこいい風に言ってしまったのだけれども、実のところ若い頃絵本に挑戦して自分の実力の無さを痛感して挫折したことがあり、以来絵本は私には無理だと常々思っていたため、全力で立ち向かったとしても撃沈するかもしれぬ。けれどもこれはもう、やるしかない。少ない脳みそを恨みつつ、画力の無さにうちひしがれながらも、それでも兎に角全力でやった。

 

実はここ1年ほど図書館のデザインの仕事をしたり、子どもたちに教えたりしていたので、今思えば絵本を作るに相応しい環境と流れになっていたような気がする。これらも私の実力や幸運などではなく、人の厚意が運んで来た縁だ。有難いことこの上ない。

 

 

私の仕事をひたすら信じてくれた恩人であり企画プロデューサーである石川さん、デザインを担当し、気持ちよく世界に流通させるために出版社まで立ち上げてくれたranbuの代表である妹に、心からの感謝を。

 

 

以上、ひらがなえほんの成り立ちのお話。

野生動物保護の支援に成る絵本となりますように。また、苦しい厄年を味わっている30代女子らの気休めになりますように。

 お終い。

2017.9.15

ひらがなえほん原画展(福岡)、森夫妻、浜勝仲間、西戸崎、誕生日、妄想についての話、もちとうきび大量摂取、ラスコー、執着と独占について、温泉、臼杵のKさん、大学時代の友人C&C、家の修繕、仏壇の部屋に優しい気配、三崎に夏のお出かけ、太陽フレアによる頭痛。

 

気がつくと9月である。福岡のひらがなえほん原画展には、友人知人、家族、ギャラリー関係の人、ちらしを手に見に来てくれた一般の人など、多くの人が来場。

沢山の友人らも、不義理でへらへらしただけの女に会いに来てくれた。嬉しい。みんな本当にありがとう。

私はみんなによく、「ブレずにずっと続けているよね」と言われるのだけれども、そうではない。何度もブレたし、結局自分の才能に見切りをつけられないだけだ。きっと私に賢く見通す目があったなら、とっくにやめているだろうと思う。自分に創造的な才能やセンスがあるなどと思ったことは、ただの一度も無い。なのに全くやめようとしない自分への憐憫なのである。自分が可愛いから仕方がない、ということに尽きる。

 

色々な人に会ったので様々なことを思ったり感じたり考えたりしたのだけれども、殆ど思い出せない。メモを取っていないと、すぐに忘れる。出来事としての記憶はあるが、あっと思ったことや、ちらりと過った感覚や、後で考えたい気になるキーワードなど、丁寧に触って覗いて確かめると重要な気付きに繋がることが多い、精妙さ自体のようなことは、本当に捕まえていないとするりと手から逃れてしまう。

 

幼馴染みのポーランド人姉弟と、大阪で流行りらしい台湾の巨大なかき氷を食す。あらゆることが過剰だ。適度さを考えることから逃げたとしか思えぬ有様。適度さを無視したものは、好きになれない。それが最も難しいし、大切なことだと思うからである。

 

7年ぶりに別の美容室へ。自意識過剰な私であるが、委ねるということが前よりは少し出来るようになった気が。

明日から東京でのひらがなえほん原画展。進言されたので、この後ひらがなえほんを作ることに至ったエピソードを書こうと思う。

 

 

 

2017.8.9

8月。昨日は満月で月食で台風。

「それでも、生きてゆく」をDVD鑑賞。満島ひかりの言葉の発し方がとても好き。溢れたり、こぼれたり、転がったり、投げ出されたり。そんな風に出た言葉は、もはや何だか意味なんか無い音階だけのようで、皮膚だとか心のフィルターだとかの隔たりを、すうと簡単に通過して入ってくる。こんな風に色を乗せたり線を描いたり出来たらいいのに。

私はホルモンバランスにより、毎月頭がイカレる日が2日間ほどある。手帳を遡って調べると、だいたい来月この辺りかなという日が判明したので、その日付けに「気狂い期」とメモ。何だか劇的な雰囲気になってしまった。もう少しかわいらしいお茶目な表記にすればよかった。「٩( ᐛ )و」とか「( ゚д゚)」とか、「☆彡」とか。

飼い猫スピカの話。いない時は当然仕事部屋のエアコンをつけていないのだけれども、「仕事部屋は一番涼しいはず」と決めこんで、暑い中耐えて寝ている。そんな彼の黒い部分の毛が、最近茶色になってきた。黒は暑いという、彼なりの進化か。おろちは猫らしく自分の体感を基準に寝場所を変えている。生物として優れているのは果たしてどちらか。
仕事中の流れで妹の息子の姓名判断を。天運地運ともに良いが、人格だけイマイチで「才能をひけらかさないように。」という凶とは思えぬ助言。

まとまりがない日記。

夏はまとめることが向いてない季節だと思う。だから、これでいいのだ。赤塚不二夫的に終わってみる。あほらしい。

2017.7.8

この一週間のことをほとんど思い出せない。つまるところ仕事のみの日々。なので日記も猫の事ばかりであるが、仕方ない。

飼猫おろちが強烈な外出欲で家の網戸を何度も破り、もう網戸を破って外出するものと踏んでしまったので窓を閉め切るはめになり、家が劇的に暑い。私もスピカもほんのり熱中症のような風に。とんだとばっちりである。

利己主義的な行動は、結果的に自分(猫)らの心地よい風が通る窓辺の寝床を無くすことになるなど、ろくなことにならないし、何よりチームを乱すのでやめるようにおろちに説教するも、微塵も反省の色が感じられない。「チームなど知るか。わたしは外に出たい。」という反抗的な気配すら漂っている。おろちの網戸の記憶が消滅するまで窓の締切は決定である。

 

そういうわけでエアコンをかけて制作をしているのだけれども、私はもともとエアコンが苦手だ。温度差による偏頭痛と肩こりが生じるからである。それに悩まされている話をしたら、友人がショールをかけるなどして肩と首の後ろを冷やさないようにするとよいという。助言のとおりにすると、確かにかなり軽減した。これはだいぶ助かった。

 

昨日のこと。午後アイデアに煮詰まり本格的な夏の気候の気怠さと相まって、うとうとする。夢うつつで書いたらしいワードがスケッチと共にあり、それが突破口に。下描きを終えた直後に鼻血。ちょっと休憩せねば。おお、なんと今日は七夕じゃあないか。毎年気付いたら過ぎている七夕。今年は6月末の大厄払いもすっかり忘却してしまっていたし、気晴らしに風雅なことに触れたい。ほう、近所の西新井大師で風鈴市なるものが開催されているようだ。いいね、風鈴。いこういこう。気に入った風鈴などあったらひとつ買おう。窓閉めてるから音鳴らないけどね。でもエアコンの下につければいい。いや、エアコンの一定風量の風だと風鈴の音色は一定になって美しく聞こえないのでは。まあよい、とりあえず久しぶりに外出だ!

 

ということで、早速鼻にティッシュをほんのり詰めて自転車で西新井大師に向う。祭りは完全に終わっていた。誰もいない。週末の準備であろうか、おはやしの練習が聞こえる中、猫好きな人が与えたであろう餌に野良猫ががっついている。その野良猫も私の顔を見るなり「ちっ。辛気臭いやつがきやがった」みたいな顔をしてのろのろその場を立ち去った。とぼとぼ参道を自転車をひきながら歩いていて、血の味が下ってきたので上を見上げると満月に近いおつきさまが。はあ、もすぐ満月か…。

という七夕の日。おしまい。

追記

ずっと欲しいと思っていたが私には高価で買えなかった物が、なんとセールで半額近くになっていた。色やらを迷っていたら売切れてしまい、ネチネチ質の私は忸怩たる思いを3日間くらい味わったのだけれども、以来携帯でネットを開く度にその情報が出てくる。「あなたが欲した情報ですからね」的な図々しさがいやらしい。それを盾に畳み掛けてくる。そしてそれを見る度にまた出てないかしらと、そのサイトを見てしまう。思う壺である。その戦略に負ける自分への腹ただしさよりも、安く買い求めたいという貧乏性が勝る自分が、最も情け無い。そう言えばこの一週間はそれに囚われていたことを、またネットで見て思い出したので追記した。

2017.6.20

ちゅーや、シャンプー講座、梅仕事、出張神託カード(30代女子の苦悩)、絵本制作、レモンムース、生田、飯能。

 

最近顔彩を使用しているので相応しい筆を買うために新宿へ。店員に相談すると、猫の毛の筆をすすめられるというカウンターパンチをくらう。

「筆を作るために殺しているんですか?」と恐る恐る聞くと、確認しに行って戻って来た店員は、「生きている状態で何度も刈るそうです!(ご安心ください!)」と私に満面の笑みを。

あーなるほどね。

その方が効率いいしね。

生きてはいるんだから問題ないね☆

などとなるかボケ。

 

もちろんその筆は買っていない。多少使いにくくても、アクリルの筆を使うことに。よれよれになってスタバへ。癒しを求め、丁度LINEでやりとりしていた友人に彼女の猫(おろちとスピカの息子猫)の写真を送ってもらう。

レモン体型のとら猫がイームズの椅子に急所丸出しでひっくり返って寝ている。願わくば、世界中の猫にこうあってほしい。

 

私が今とりかかっている絵本の収益の一部は、都会の野生動物保護の資金に使われる(野良猫、野鳥など)。

それはとても私のモチベーションを上げる。正義感などではない。私は幼い頃より動物に心救われてきたにもかかわらず、自分で積極的に保護等の活動に参加したり資金を出すことをしないので(できないのではなく)、自分の仕事がたまたま役立つという、あくまでも自分にとって最も都合のよい折り合いの付け方なのである。

そんなわけで、その制作に動物の毛を使用した筆を使うという筋が通らないことをするわけにはいかないのだけれども、猫の毛は使いやすいという情報にも描き手としては当然興味はある。レモン猫の毛が向いてそうなので、抜け毛をもらって作ってみよう。

恩師に会う。人は自分を許すことがなかなか出来ないという話。具体的にどうすればよいのかわからないのではと言うと、「自分の最高イメージをすること」という答え。なるほど、わかりやすい。メモ。「進化の流れに乗るには、あらゆることを後回しにしないこと。」払い渋っている家賃の更新料を払おう。

仲間で生田の友人宅へ。立ち止まって空気を感じたくなるような眺めのいい場所がポイントポイントにある。なるほどなあ彼はこんなところを選ぶんだなと、何と無く腑に落ちた。

仕事の友であったレーズンチョコを72%カカオチョコに変えた。濃いため少量で済むのがよい。

町田康の「ホサナ」、池辺葵の「ねえ、ママ」と「プリンセスメゾン」4巻、吉福信逸「世界の中にありながら世界に属さない」とBRUTUS「お金の、答え」「真似のできない人生訓」をジュンク堂で大人買い。

殆ど人に会わず制作。合間に猫と読書。人と会ったり出かけたりするのは好きだけれども、私は本来こういう生活が合っている。

今日は夏至だが梅雨っぽい雨。雨の音を聴きながら薄いコーヒーを飲む。とても精神が安定している。

私は夏に大きな変化の機会が生じやすい。きっと最も力がある季節だからなのだろう。今年は何が起こるんだろうか。今までは猫を両小脇に抱えてブルブルしながらではあるけれども、逃げ去ることはしてこなかったと思う。今年はブルブルせずに、落ち着いていたいものである。

追記

火事等いざという時の為に、猫が逃げられるよう網戸をわざと破れやすくしてあるのだけれども、毎年飼い猫おろちに無駄に破られる。夜中に物音がしたので目を覚ますと、網戸と窓の間に挟まり込んでアニエス・ベーのマークのような有様になっているおろちが。一体何をどうしたいのだ。網戸はまたしても無惨な始末になり、苦々しい気持ちを誰かに言いたいが、人に会わないのでここに追記した。

2017.5.17

Kさん逝去、今年もアリ発生、湯島のラム肉料理、プラスチックの焼けた臭いで110番、「時代のメモ」、文字の形の考察、満月、女会、優しい人。

ある曇りの昼間、自転車で西日暮里に向かいながら、私はひとつのことを考えていた。「自分がとても言いたいこと」と、「言わなくてはと思うこと」は、言わなくていいかもなということ。何だか早口言葉のような物言いだけれども。

自分が言わなければと決めて放った言葉ほど伝わらないことが、圧倒的に多い。言わなければと思う時点で自分が正当である前提であり、相手を承認・許容するつもりがない。それは「会話」にはならない。既に結論付けているからだ。私はこういう独りよがりなところが、すごくある。意識しているものの、言いたい欲にたまに負けてしまう。

逆に、「あなたのために言うんだけど」と前置きされて言われたことは、何一つ身になっていないし、「あなたは知っておいた方がいいから」と言われて知る必要があったこともあまり無い。

この話を友人にしたら、「そうだよ。返答だけだよ、必要なのは」と言われて、返答だけだとはまだ思えきれないものの、そうかもなあと思った。

軽快だけれど真面目に会話をする人、相手に沿いながらも率直な会話をする人、自分が発信したことに責任を持つ会話をする人、みな様々に素敵だ。さしづめ私は肯定的に言えば「曖昧だけれど親切な感じの会話をする人」というところか。

又吉さんの「劇場」読了。

切なく苦しい小説だった。若さゆえの。最近はこういう類のものを読むのがしんどくなってきた。話題になっていたので買った漫画「描クえもん」もしんどい。「海街diary」8巻と「逃げるは恥だが役に立たつ」最終巻はよかった。大きな波立ちとして描かずに、静かな波間に煌めいたものや暗いものをたゆたわせる感じが、すっといいリズムとタイミングで心地よく染みる。

そう、今は「染みる」のがいい。

今更ながら河瀬直美監督の「殯の森」を観た。これまた染みた。よかった。死を慈しむことの映画。近々新作公開される「光」も楽しみ。グザヴィエ・ドランの新作は見逃した。残念。

布団の上で寝転んで日記をつけている。目の前には読書灯とアリ対策のハッカ油と、横切るアリ一匹。足元には猫飯が足りない様子の飼い猫ら。

3時だ。眠い。おやすみなさい。

2017.5.1

巷はGW。私は別段変わらない日々。

先日知人浜ちゃん(舞台女優兼歌手兼エッセイスト)の展示へで新宿BELGへ。作品ともなっている彼女のブログ《空想2%》は面白い。リズムの取り方とか描写の仕方とかユーモアの入れ方とかが、何となく舞台上を思い起こさせられて、度々ブハッとなった。

その後皆で飲みに行った先で、彼女が同じ職場の美人女子が無駄にみんなの注目を集めて仕事に支障を来していることの不条理さを力説していだのだけれども、それは「美人だから仕方ない」という、その不条理さを真理のごとく認める男性陣の結論の前にええ〜〜とガックリ項垂れているのを見て、私は秘かに正直で愛らしい人だなあと思っていた。

結局女が男に求めることは「私を見て!」に他ならないと思う。男についてはわからないけれども。「見て!」と言っているのだから、見たらいいのにと思うが、男性は見るだけに留まらずに余計なことをする場合が多い。意味を問うとか、探るとか、先回りするとか。そんなものは必要ないのだ。女性は好きな人のことを、全身全霊で見ていると思う。

彼女の展示の中に前世の占いの話があったのだが、実は私も前世を占ってもらったことがある。

高校3年生の大学受験が差し迫った時期、私は父と占いに行った。物理を専門とする父は、自分が確かめられないことは信じないという典型的な古いタイプの科学者である。何故そんな父と二人きりで占いに行ったかと言うと、多分よく当る占いとかで私が他所で聞きつけてきて、センシティブになっていた私に父親心で付き合ってくれたのだろう。

さりとて、父の眼前で恋占いなど出来るはずもなく、受験直前で未来を占うのも恐ろしい。仕方なく前世を占ってもらった。

占い師はまず最初に父の前世を見た。父は戦国時代の偉い武将で、片時も肩の力を抜くことがない。武将である父の大きな屋敷の庭には小振りながら立派な池がある。その池には一匹の亀が住んでいて、父が池に近寄ると水の中から出て来て石の上で月光浴をする。その気持ち良さそうな亀を眺めるのが父が唯一和む瞬間であったのだそうな。そしてその亀が、私の前世だというのだ。

亀て。

前世が動物なんて、聞いたことがない。小難しそうな父親と間抜けそうな娘を見て適当なことを言ってるだけなのでは。こいつ怪しい。騙されるかも!と思い即座に横を見ると、とても腑に落ちた様子の父が居た。深く頷きながら、「お父様はその亀をとても大切に思っていて、そのご縁で今世は親子になったのです。」という占い師のまとめを神妙に聞いている。

何を納得してるのだ。めっちゃ娘バカにされてるし、壺買わされるよ!と心の中で叫んだものの、父は既に武将顔で微笑みながらこちらを見ている。結局、父は快く3000円を支払い私は忸怩たる思いで占いの館を後にした。

私の生まれて初めての占い体験であった。以来22歳まで私は占い師というものに対して不信感を持ち続けた。もとい、根に持ち続けた。

しかしその後の色々な経験によりその不信感は無くなったし、改めて冷静に考えてみると、確かに私は月光浴や水中が好きで、歩くという字が名前に入っているように色々のろい。これらを見ると、全く違うとも言い切れぬ。

亀か…何か、テンションは上がらないけど、まあ、どうやら微かにではあるけれども有意義な存在だったみたいだし、まあ、いいか…亀だけど。

という風に今は折り合いをつけた。
以来、ラクダを相棒にしていたエジプト男性とか、中世の壁画職人とか、マヤ人とか、社会的には成功したが愛を犠牲にして後悔し続けた女とか色々言われてきたが、人間でないのは亀だけである。自分ではこうなんじゃないかというのがかなり具体的にあるのだけれども、それは秘密。

雄猫スピカが蚊を追って暴れている。雌猫おろちはちゃぶ台の上の焼き海苔を狙っている。私は生玉ねぎとブロッコリーのサラダを泣きながら食べ、あんまりからかったので今はデーツを囓っている。

そんな5月冒頭の日。